氾濫するキャラクター

今日は、志摩市の話を見て色々と思いついたことを書き散らしてみたい。triplogとはなんだったのか。看板に偽りあり。嘘つきは泥棒の始まり。

さて、志摩市の話とはなんぞやという人は次の記事を。
http://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20150805-OYTNT50261.htmlwww.yomiuri.co.jp

つまるところ、萌えキャラをPRのため作ったところ、モデルとなった当の海女さん達の反感を買ってしまっているということだそうだ。

市の見通しが甘かったのかなとか、署名してまでの反対することかよとかまあどっちも好きにすればいいと思うのだけれども、やはりなんでもかんでもキャラクターになるご時世であるなという話である。
少し前、キャラ化するニッポンという本がありまして。まあ読んでないので中身が関係あるのかわかんないんだけど、ふとそんなタイトルが浮かぶ感じ。

 

皆さんご存知の通り、私はアニメも見るし漫画もラノベも読むし、果てはパソコンでもスマホでもゲームをやっている程度にキャラクターにあてられて生きているのだけども、そういったことを抜きにしても、実に世の中にキャラクターで溢れているとは思う。特に今回の萌えキャラというのも、最初*1は物珍しさこそあったものの、いまや猫も杓子もという感じであるのは勘違いではないだろう。

そんな萌えキャラにも色々あると思うが、要はかわいさで勝負しているのだろうし、かわいいのは最早当たり前だと思う。じゃあかわいいのは当たり前でどうやってこのキャラ群に差異を見出すかというと、これは私の趣味によるところではストーリーである。たとえば、過去にどんなことがあったとか、家族構成はどうだとか、怒りっぽい、泣き虫、一人称はなにか、そういった設定あるいは属性、またそれらから構成される世界観もまたストーリーの一種だと思う。

どういったところが琴線に触れるかというのは人それぞれあると思うのだけど、いずれにせよ、ただかわいいだけでは埋没するのではということ。

 

今回のような地元PRキャラクター、という場合にはキャラクターを通して地元のよさを発信する役割が期待されているのだけど、ただかわいいキャラが(設定上)住んでいる街を紹介しますってだけじゃ面白くないなと思ってしまう。

だからそういったストーリーをいかに組み込むか、深堀りするかというところに注力しないとダメなのかなあと。ただ、世界観っていう意味では最初から現実世界に根ざしている*2以上、とんでもない設定を盛り込むというか、複雑な舞台装置を作りづらいという難しさがある。もちろん土地土地にドラマチックなお話があるかもしれない。
その一方でその現実世界との近さ故に現実世界へ落とし込むことがしやすいのかもしれない。そしてその世界観に触れたいがため実際にその地を訪れるのだろう。この辺はいわゆる舞台探訪の話につながりそうである。

 

だんだん頭も手も止まってきたんだけど、こういう地域PRとかについてもキャラクターの存在だけではいけないフェーズにいるんだよなっていう話、ということにしておこう。なんでも新規性と差別化だ。大変だ。そういうストーリーを求めているから二次創作というものがこれだけ盛んなのではないか、とも思うけどよくわからないのでこれ以上筆を進めない。

 

そういや萌えキャラの話で書いてきたけど、ゆるキャラにもある程度共通する話なのかもしれない。ゆるキャラあんま知らないけどね。

*1:っていつだろうな

*2:もちろん広い意味では大多数の作品がその国の一般的な価値観みたいなものに根ざしているのだけど