大阪馬車鉄道・浪速電車軌道車両考

今回は黎明期の車両の話をしたいと思います。
そもそもその会社はなに、という方は一番下に過去記事リンクまとめてありますので合わせてご覧いただければ嬉しいです。

大阪馬車鉄道客車
大阪馬車鉄道の客車の情報は皆無と言ってよいほどですが、1903年3月を境にして2種類あったことがわかっています。

ちなみに絵として描かれているものもありますが、根本的なところが違っていたりして、全く参考になりません。
以下は阿倍野区のホームページにあるものですが、車体の外側に車輪が付いているもので、軌間が1067mmの馬車鉄道の絵としては明らかに不適当です。

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大阪市阿倍野区:阿倍野の歴史・沿革 (お知らせ>阿倍野区プロフィール)

(1)古客車流用車
馬車鉄道会社は開業に向けて発注をしていますが、1900年の開業には間に合っておらず、川辺馬車鉄道(1891年開業)の車両を松藤和四郎から7両購入して使用しました。松藤は川辺馬車鉄道設立~摂津鉄道の株主に名前が見え、不要になったあと払い下げられたものを所有していた、もしくは仲介したのではと思われます。

川辺馬車鉄道とは尼崎~伊丹間を結んでいた馬車鉄道で、開業後数年で電化・改軌のために廃止、摂津鉄道へ改組されており、極めて短期間営業した馬車鉄道です。このため、こちらの情報も極めて乏しく、下記断面図が辛うじて唯一の手がかりと言えます。

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【出典】『馬車鉄道神崎停車場附近線路横断ノ件』「鉄道院文書 鉄道局事務書類 巻之三 明治21年度」 (1888)
※「鉄道古文書明治前期鉄道行政資料集 鉄道博物館所蔵丸善雄松堂(2014)に収録

さて、ここで不思議に思うのは、軌間が2尺3寸=約872mmとなっていることです。大阪馬車鉄道の軌間は1067mmなのです。

しかしながら、この断面図は官設鉄道との交差部に関するやり取りに含まれており、いわば計画段階のものです。これが以下の通り、実際開業するまでに1067mmに変更となっています。
ということは、実際に使われた車両の寸法もこれと異なる可能性も十分あるのですが、一方で大阪馬車鉄道と軌間が同じですので、使い回すこと自体はできるのであろうと考えられます。

兵庫県川辺郡伊丹町小西壮二郎外十三名発起者と為り一般運輸交通の目的を以て川辺馬車鉄道会社を創立し同郡尼ヶ崎より伊丹を経て川西村に至り又伊丹より分岐し有馬郡三田に至る延長約24マイルの間に軌間2尺3寸の馬車鉄道を敷設せんとし明治21年11月特許を受け23年10月軌間を3フィート6インチに変更するの認可を受け会社の位置を伊丹町に定め伊達尊親を社長とし24年7月尼ヶ崎長洲間9月長洲伊丹間の営業を(以下略)
【出典】日本鉄道史. 上篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション
※漢字・かなは読みやすいよう置き換え

(2)自社発注車
一方の自社発注車両は、福岡鉄工所へ10両発注しており、寸法は高さ2032mm(6フィート8インチ)、幅1676mm(5フィート6インチ)、長さ2197mm(7フィート2.5インチ)、車掌台の長さが610mm(2フィート)、車輪直径533mm(1フィート9インチ)となっていますが、図面はありません。

ここで各年度の統計書から大阪馬車鉄道の車両数と馬匹数の推移を見てみます。

年度 車両 馬匹
1900 7 16
1901 7 15
1902 10 30
1903 10 11
1904 8 11
1905 8 11
1906 8 12

開業当初は7両で、これは川辺馬車鉄道からの分と一致し、当初はこれのみで営業していたことがわかります。
1902年度末時点で10両に増えていますが、1903年3月に自社発注分10両が完成していることから、ここで川辺車から自社発注車に切り替えられたことになります。1904年度末には8両に減っており、2両廃車になっています。この2両の行方を調べるとひょっとするとなにか出てくる可能性はありますが、手がかりがありません。

一方、馬匹数の推移では、1902年度末時点のみ30頭と大きく増えますが、翌1903年度末には11頭にまで減っているのが気になります。
おそらくは1903年3月から第五回内国勧業博覧会が開催されており、増発などの対応を図るために増やしたように見えます。また、翌年の減り方が急激なのも、1904年2月に日露戦争が始まっており、各種物価が上昇して経費が増大したことや、軍に徴発されたなどの影響があったものと見られます。
ちなみに、廃線後に出された新聞広告では11頭が売りに出されています。

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【出典】大阪朝日新聞 1908年2月3日朝刊6面

ここまで細かい寸法の話をした後に言うことではないですが、車両デザインとしてはそこまで大きな差異はないように思えます。
ただ、1頭引きですので東京馬車鉄道とは少し違う風景だということになります。

北海道開拓の村を走る馬車鉄道は札幌石材馬車鉄道*1がモデルで軌間は762mmです。
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満島馬車鉄道*2は開業年と軌間が同じでかなり近そうな気がします。

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【出典】唐津名勝案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション

浪速電軌形車両(大阪市電11形)
続いて、電化開業後の初代車両の話です。これはそれなりに追っかけることができます。
初代車両は合計50両おり、1909年に20両製造、1910年に30両製造されています。開業区間(天王寺西門前~住吉神社前)に対して過大な両数に見えますが、これは1907年に大阪市電気局と車両共用契約を結び、直通運転することを前提として作られたためです。このため、大阪市電11形と同形の車両となっています。
ただし、この大阪市電との直通運転は1912年と早々に終了し、1910年製造の30両を市電へ譲渡、11形291~320号として編入されています。

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大阪市電11形は復元車両があります。車番の30号は復元した昭和30年に因んだもので、由来としては285号です。

南海鉄道に残った20両についても、1915年に兵庫電気軌道へ10両譲渡、1920年に散水車へ2両改造、1921年に広島瓦斯電軌(現・広島電鉄)へ8両譲渡(100B形101~110号のうち8両)され、開業10年ほどで全廃され、形式消滅となりました。
譲渡先を見ていくと、まず兵庫電気軌道は現在の山陽電車の一部です。1915年当時は兵庫~塩屋のみ営業していましたが、そもそもボギー車を使う会社なので2軸車をどのように使用したのか不明です。貨車や散水車などの素材にした、などがあるかもしれませんが、兵電については不勉強のため、そういった用途の車両がいたかさえよくわかりません。そこで念のため、神戸電気(後の神戸市電)の可能性も検討したものの、こちらも該当するような車種は見当たりませんでした。

1921年譲渡の広島瓦斯電軌100B形は当初から10両在籍していて数が合わないように見えますが、梅鉢鉄工所から2両を直接購入しているため、南海からの譲渡は8両で正当となります。この両数の整合性を取るためか、10両譲渡と書いてあるものも見かけますが誤りでしょう。
その後、大阪市電からも11形20両を譲受して100B形は30両体制となります。この中には南海鉄道出自の297号・308号が含まれていて、広島で再び合流しているのが面白いですね。

中古車両としては大正10年(1921年)に南海鉄道(株)(現:南海電気鉄道(株))より8両、梅鉢鐵工所から2両購入し、100B形とした。その後も増加の一途を辿る利用者の混雑緩和を図るため、昭和2年(1927年)には、大阪市電気局(現:大阪市交通局)からも20両を追加購入した。20両のうち2両は、大阪市南海鉄道(株)から譲り受けた車両であったが、南海鉄道(株)は大阪市電へ直通運転を行っていたため、先の10両も含めて、中古車はほぼ同じ形式の木造2軸車であった。
【出典】「広島電鉄開業100年・創立70年史」広島電鉄(2012) p.62-63

最後に1920年に改造して作られた散水車は、散水車の3号・4号となります。
1940年頃までには散水車というよりは車庫内の入換用車両になっており、1944年頃に4号は分解され和歌山電軌へ売却されたことになっています。しかしこれも受入側の記録が無く、詳細はわかりません。このときタンクは住之江で防火水槽に転用されたようだという話もあります。
残った3号は1955年頃にタンクを外すなどして再び改造されており、これが実のところ、いまも車庫内に鎮座しているTR2と呼ばれるものです。
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TR1・TR2についてはかつて編集長敬白に掲載されており、詳しいです。サイト自体はなくなってしまいましたが、アーカイブを貼っておきます。
web.archive.org

というわけで、黎明期の車両についてのお話でした。

*1:~札幌市街鉄道~札幌電気鉄道~札幌電気軌道

*2:唐津軌道~九州電灯鉄道~関西電気~東邦電力