あべの筋の線路切替

昨日、「都市計画道路長柄堺線(阿倍野筋)拡幅整備に伴う当社上町線の移設工事について(PDF)」というリリースが出まして。
珍しく連続でブログを書いてるかと思えば阪堺の話です。

長柄堺線というのは都市計画道路*1でして、正式には府道30号和泉泉南線。カッコ書きされているように、一般的には愛称である「あべの筋」で通ってるかと思います。13号線*2とも呼ぶんですが。

ああいよいよかという感じでして、着工は今月下旬。再来年2017年1月に線路切替、同年12月に完工というスケジュールのようです。結構前の計画では、昨年度中に終わってるはずでしたけどそれはたぶん言ってはいけない
これにより(新)阿倍野歩道橋供用以降の懸念であった歩道橋との接続が行われ、エレベータもようやく。切替後は複線間隔がやや広がってセンターポール式が採用され、そして交差点部分をのぞいて緑化軌道に。
また、図によれば道路は両側3車線分の幅があるようで、天王寺駅前の部分は右折車線を加えて北行4車線。これは本当にすごいんですが、まあその辺は。ということで歩道橋からの写真を順番に並べてみたいと思います。

 


まずはwikipediaから引っ張ってきましたが、2007年9月の風景です。拡幅工事開始前で、軌道が中央にあり、両側は1車線ずつ、そして屋根付の歩道。
見た感じすごく2車線っぽいですが1車線です。「おまえこんなんバスおらんかったら余裕で2車線やろ」みたいなことは私も思ってましたが一応1車線です。ちなみに軌道敷通行禁止なので、油断して膨らみすぎた乗用車が少しでも入ろうもんならおもっくそ阪堺に警笛鳴らされてたもんです。交通は戦争。
それにしても8年前、と言われると大したことないように思えるんですが、改めて見るととても懐かしい風景だったりしますね。

 

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少し下って2011年3月。このあいだ3年半なんですが結構な変わり様です。
写真左側では百貨店解体工事中、右側ではQ'sモール開業間近という風景。撮影の後、東日本大震災の揺れが足下に到達したことを覚えています。めまいだと思ったんですが。
2011年は阿倍野歩道橋の架替工事が本格的に始まり、2013年4月24日の新歩道橋全面供用開始まで似たような角度で撮れなくなりました。

 

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そんなわけで歩道橋架替後の2013年6月。
近鉄百貨店は低層階の改装開業間近です。北行車線は交差点手前で外側へ曲げられています。ちなみに今見てて気づきましたが、「軌道敷通行禁止」の看板このときに変わったんですね。
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11月。違う場所でかつ夜ですが、こんな感じ。

 

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2014年6月。北行の新しい車線はほぼ完成。

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ちなみにこのときハルカスに登っていまして。写真一番上の阿倍野駅からQ's前にかけて。

 

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2ヶ月後の8月の風景。7月24日に北行車線が切り替えられ、2車線化。8月4日に市バス「あべの橋」の橋上のもの*3がQ's前に移設。
以降手元に写真がないのですが、基本的には今もこんな感じかと思います。

 

それにしても2017年にモ161形は89歳を迎えるわけですが、まだ生きてくれてるのでしょうかっていう話ですよね。是非ともセンターポール緑化軌道をひた走る姿を拝みたいものですが。

 

最後、完全に余談ですが「13号線」の話。府民の声とかでも突っ込まれてるんですよね。
府民の声 - 大阪府南部に、緊急交通路として大阪和泉泉南線(大阪府道30号)」が…
府民の声 - 数十年以前より、府道大阪和泉泉南線(府道30号)名称が…
まあ言わんとしていることはわからんでもないんですが、府道の番号付け替えちゃったほうが楽なんじゃないの、とか思っちゃうのは呼んでる側の人間だからなんでしょうね。本物(?)の13号は天下の国道1号線の旧道なのでそれはそれで地元の呼び名ありそうですし。www.nikkei.com
色々見てみると堺以南ではこの十三間道路説が有力っぽいのですが、我が家ではまことしやかに国道26号線を2で割った説が語り継がれています。謎は深い。

*1:松虫交差点以北、2013年に松虫以南は計画廃止

*2:諸説あるもののが由来がわからない通称

*3:北行の62・63・64・67の降り場。新バス停では62の乗車扱い開始

模型買いに行ったら帰宅難民になりかけた話

notoya.hatenablog.com
こういうことがあったのですが、記録がてら書き散らしておきます。

 

まず、夜行バスで大阪駅に着いたのが朝6時。ほぼ定刻通りでした。

三連休初日ということでバスターミナルはきっと混んでるんだろうなとか思ってましたが、割とまばら。いや、着くバスからはそれなりに吐き出されてるのですが、乗ろうとしてる人があまり。それもそのはず。山陽・四国方面は運休多数。中国道山陽道・神淡鳴道が軒並み死んでいたようで。
ところで「神淡鳴道」が一発変換できないのでだいたい辞書登録するんですがなんとかなりませんか、と思って調べたらあまりそんな略称は使われないらしいですね。でも神戸淡路鳴門自動車道とか明らかに長ったらしいし、この名称から見える地域間対立というか、みんなわが町の名を付けようとして結果的にくそ長くなっている感じがすごい。

さて。

とりあえず駅に入ったわけですが、これもまあ人がいない。今回の目的地は南海本線堺駅なわけで、新今宮まで環状線やなーと改札に向かいました。
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全滅の図。
天下の大阪駅中央改札口がこの状態です。すごい。さすがに見たことない。

いや、放送によれば吹田~神戸では普通が走っているらしいのですが、私には関係のない話なのでおとなしく地下鉄へ。
難波で乗り換え、堺駅到着は7時過ぎ。先立つものをダウンロードしてから列へ並ぶこと3時間。と言っても、今は便利な世の中でありまして、手のひらサイズの電子機器でゲーしてればあっという間なんですよね。電池もあっという間です。
ちなみに列の前の方に先輩がいたり、後ろには先輩と後輩がいたりは所定ですよね。オタクの行動パターンって決まってる。

 

そんなわけで南海7000系の鉄コレ、4両3箱、3両4箱*1を手にしました。いくらかかったかは考えない。

でまあ、駅へ戻ろうというところなんですけども。

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南海本線は羽倉崎で人身で止まってるパターン。なんなん俺なんか悪いことした?

幸いにしてその後しばらくで再開したのでなんとか梅田へ。まだ環状線死んでるからまた難波乗り換えですよ。ええ。

 

で、梅田で16円足りないお化けに止められたid:noto92と合流。ちゃんとチャージして地下鉄乗ろうね。

なおこの時点で私が帰る手段の一つであるサンダーバードの終日運休が決定しておりまして、そもそも今津~敦賀が死んだままであるため普通列車で帰るというのも博打になっております。すごい。ほんと何の罰を受けてるんだ私。

朝一ならまだあったんでしょうが、まあ夕方には動くやろーもう止んでるんやしなーぐらいの感じでいたため、大阪~金沢便はJR、阪急+北鉄金沢ともに満席。なんとか大阪~福井便の、しかも増便扱いを確保してひとまず望みがつながったんですが、万一、1時間ほどバスが遅れると石川県にたどり着かないという危なっかしさです。
ただ心配したところで事態は好転しないので、とりあえず南海7000系お渡し会を開催しました。サザン買おうな、って話をたぶん10回ぐらいした。
あとは私がコンプティーク探すのに付き合っていただいて。っていうかメイトもジュンクもなくて紀伊國屋にあるってのもよくわからない。彼はメイトで下記物品を購入されました。やったね。

 

そんなわけで阪急三番街は17:40発の福井駅東口行きに乗車。
増便だからトイレがついてないけど気にしない。まあ4列、なんですけど私の乗る4列といえば青春なにがしなので、これ足下広い、やばいってなりながら大体寝てました。
遅れとしては20分で福井駅東口に到着。てかこの20分、明らかに新御堂の渋滞の所為なんですけど。

そんなわけで接続列車を逃し*2しらさぎサンダーバードもくたばってると1時間に1本しか県境越えれないので40分待ち。とりあえず今庄そば食べるよね。

なにやら時間通りに入線せずおいおいって感じでしたが、福井駅では本来特急待ちがあるので結果としてここから定時。特に遅れもせず、無事帰りつけたのでした。

*1:1箱は先輩に代購していただきました。いつもありがとうございます。

*2:と言ってもそもそもバス→JRの5分接続なのでできるとは思ってない

二塚貨物~中越パルプ工業専用線~

2015年5月9日()

先ごろ、富山県高岡市の二塚貨物をなんとかラップさんと見てきました。
実はすでに今年の貨物時刻表から姿を消しているのですが、まだJR貨物公式サイトの時刻表には載っていて、まだ運行は継続されていました。とは言っても、貨物時刻表からページが消えたということは、今年度中途で廃止となる*1ということで、この機会に向かいました。

集合は新高岡駅にて、午前11時前。ちなみに前夜に決まりました。相変わらず行動力だけは無駄にある人ですよね。

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二塚駅に到着すると、昼過ぎに出発する貨物が側線に。
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この普通列車の通過後、側線から一旦高岡方面に出発し、高岡方面のりばに転線。どうやら出発信号機がこの線にしかないようで。

新高岡駅へ移動。うろうろするものの、あまり撮れそうなポイントはなく、駅の跨線橋から狙うことに。
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立派なサッカー・ラグビー場があり存在感が薄れていますが、奥にそびえる工場こそ荷主の中越パルプ工業二塚工場です。


再び二塚へと戻り、今度は専用線沿いに進みます。
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専用線区間にも踏切がありますがいずれも遮断機のないものです。

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13時前。線路際にある音声装置が起動し、工場から推進でコキ10両編成が姿を現しました。

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少々交通量のある道路を信号つきの踏切(二塚踏切)で横切っていきます。

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一旦停止し、普通列車の通過を待ってから、駅へ向かっての大カーブ。ゆるゆると側線へ押し込んでいきます。

昼飯を地方民らしくイオンで済ませた後は、高岡から二塚にやってくる貨物を狙います。
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跨線橋から見えたスポーツ施設の脇。新高岡駅をバックに。撮ったときはあまり意識してなかったですが奥にE7(W7?)の姿が。


二塚踏切に戻り、スイッチャーが引っ張ってくるのを待ちます。
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追っかけて正門まで。

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先に数両だけひいて中へ。googlemapなどで見ると、入って行くと南側の引上線にあたり、そして折り返して北側の引上線に行く構造のようです。

残されたコキもそのままというわけじゃないだろうということでしばらく待ってみるものの、スイッチャーが北側から戻ってくる気配がなく。

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15分ほど経って南側から赤いスイッチャーが登場。二塚貨物といえばあの緑色のスイッチャーしか見たことなかっただけにびっくりでした。
これで全てのコキが工場へ吸い込まれていきました。


最後に見たまま時刻メモを。
11:40~44 二塚駅側線から上り本線に入換
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12:52 工場から出発し専用線へ、合流手前で停止
13:05~09 出発、二塚駅側線へ進入
13:11 二塚駅からスイッチャー単機回送
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14:50 コキをひいて二塚踏切を通過
15:26 全車工場内へ

*1:昨年度では羽前水沢が5月にトラック転換し、ORS化しました

大阪馬車鉄道の誤解(2)

昔に書いた記事の続きみたいなものです。
aqueous-triplog.hateblo.jp
前回は、大阪馬車鉄道の端緒たるは現在の天王寺駅前東天下茶屋であり、一般に言われている天王寺西門前~天王寺駅前を最初に開業した区間に含む説明は誤りであろうという話でした。

今回は続いて開業した「上住吉」「下住吉」の話をしてみたいと思います。
明治33年11月、大阪馬車鉄道は起点から約3.6kmの地点にある上住吉という場所まで延長されます。「上住吉という場所」などという回りくどい書き方をしましたが、実は馬車鉄道時代の駅名というのはよくわかっていないとされています。

 

まずは先の記事でも参照した明治33年度の大阪府統計書、また翌年以降、馬車鉄道時代の統計書を見てみます。すると、明治35年の下住吉延伸を境に表記が二分されており、後年の方では地名で記されているように見えます。
参照:明治34年度明治35年度明治36年度明治37年度明治38年度明治39年度

明治33年・34年 明治35年以降
天王寺村字長者ヶ崎 天王寺村大字天王寺長者崎*1
阿部野村八弘社 天王寺村大字阿部野八弘社
天下茶屋 天王寺村大字天下茶屋
勝間道 住吉村大字住吉勝間道
上住吉 住吉村大字住吉字上住吉
<未開業> 住吉村大字住吉字下住吉

さて、この統計書の表記がおかしいという話なのですが、ひとまず次の資料に移ります。

それは明治40年2月2日に特許された命令書です。これはWEBで公開されていませんが国立公文書館にて閲覧できる資料です。
命令書では延長線と動力変更線に分けて区間が示されており、動力変更線とは馬車鉄道から電気鉄道への変更許可を受けた路線であって、つまりは当時既に開業していた区間のことを指します。
明治40年2月2日の許可後2回ほど内容が訂正(修正?)されていますが、その最も新しいものを引用すると

一、延長線
大阪市南区天王寺大道町1丁目6052番、同6022番地先より同町3947番地先に至る假定縣道
前項終点より天王寺茶臼山町3713番地の1に至る新設軌道敷
前項終点より東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎1886番地の1地先に至る假定県道


二、動力変更線
 大阪府東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎1868番の1地先より同村大字天王寺字口經立1075番地先に至る假定縣道
 前項終点より同村大字阿部野字原田314番地先に至る新設軌道敷
 前項終点より同郡住吉村字一ノ坪1048番地先に至る假定縣道
 前項終点より同郡墨江村大字長峡4番地に至る新設軌道

とあり(一部読みやすくするため表記に変更を加えています)、「假定縣道」とある区間は併用軌道のことであり、新設軌道(敷)はそのままの意味です。
この資料から既設線の終点は「墨江村大字長峡4番地」であり、「住吉村大字住吉字下住吉」という統計書と食い違います。

 

この矛盾を考えるため、まずは住吉村誌で地名を確認することにします。
地理の項目「区画」を参照すると小字名の一覧があるほか、地図で位置関係も確認します。
また、前回も使用した大阪地籍地図についても合わせて参照します。

 

まずは住吉村内一つ目の「大字住吉勝間道」ですが、これはおそらく「大字住吉勝間道」であろうと読み替えます。字勝間道は小字名の一覧に「勝道」があり、これが該当します。なお、勝間(こつま)というのは隣接する村の名称であり、現在も勝間南瓜などで知られており、「門」というのは明らかな誤字でしょう。
さて、この「勝間道」の位置を確認すると、北西側、現在の高野線沿線*2に確認できますが、字内に現在の上町線の経路は確認できません。

次に「大字住吉字上住吉」ですが、字上住吉については一覧・各地図ともに該当はなく、続く「大字住吉字下住吉」も同じく該当はありません。
ここで順序が前後してしまいますが、そもそも村誌を参照すると

村内に大字名なく纔(わず)かに番地を以て區別するのみなり。然れども夫々土地に依っては小字名あり

とあるため「大字住吉」というもの自体が誤りではないかということになります。命令書中で「住吉村字一ノ坪」とあることからもなおそのようです。
よって、これらの「勝間道」「上住吉」「下住吉」は字名ではなく、駅名そのものではないのかという考えに至ります。

 

なお、天王寺村内についても同様の考察を行うと、「天王寺村大字天下茶屋」は「天王寺村大字天王寺天下茶屋」として該当がありますが、位置としては現在の天神ノ森駅周辺であり、現在の上町線とはかけ離れてた地点を示しています。また「大字阿部野八弘社」についても、先の勝間道の例のように大字阿部野八弘社のように一見思いますが、該当はありません。それもそのはずであり「八弘社」とは、現在の南霊園を明治40年まで運営していた会社の名前(出典:一般財団法人 環境事業協会)であり、地名ではないからです。
つまり、こちらの「天下茶屋」「八弘社」についても駅名ではないのか、ということです。

さて、すっきり結論が出たように思えそうですが、残念なことに不思議な点が二つ残ります。
一方は「長者ヶ崎」は字名としてたしかに存在し、場所も一致しており、駅名かと問われると疑問が残るということ。もう一方はなぜ下住吉は「墨江村」と書かれなかったのかということです。
色々と調べてみましたがこの点についてはなんとも言えないところです。

*1:37年より長者『ヶ』崎に戻る

*2:おおよそ現在の阿倍野区帝塚山1丁目及び北畠3丁目の各一部

惜別の記録

前回と同じく、写真をぺたぺたしただけの記事です。

昨日3月14日。ついにダイヤ改正となり、北陸新幹線延伸、在来線三セク転換などここ数年で一番ではないかという大改正となりました。
少なくとも私にとっては、ここ数年のうちで一番ダイヤ改正前にバタバタした、名残惜しい改正でした。

まずはトワイライトエクスプレス
前回も書いたとおり本当に憧れの列車というかこれぞ華形という想いもあり、何かにつけて写真を撮りに出向きました。

呉羽~富山
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動画

西高岡~高岡
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倶利伽羅~石動
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津幡~倶利伽羅
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加賀笠間
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美川~加賀笠間
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また機会があったら書こうと思いますが、実は2月28日大阪発のきっぷが取れ、乗る機会を掴むこともできました。 

notoya.hatenablog.com

次にこれもまた華形である特急はくたか
ほくほく線自体へはあまり行ったことがないのですが、馴染みあるのは電GO効果。在来特急最高速を華形と言わずなんというのか、とも思います。
また、はくたかと並んで走り、北陸本線を特急銀座たらしめていた北越。じっとみれば結構痛々しい姿でしたが、ある意味この越ノ国の自然の厳しさを教えてくれる姿でもあり、また頼もしくもあり。

西高岡~高岡
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石動~福岡
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倶利伽羅~石動
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津幡~倶利伽羅
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最後は普通・快速列車の475系。
かつて中高生のころにやった大回りでは、必ず近江今津米原で待っていた車両の一つで、様々な思い出が蘇ります。特に冬場は雪見を兼ねて行っていたというところもあり、長浜や近江今津近江塩津のホームで雪を触っていました。

敦賀直流化や521系の登場によって北へ、東へと姿が遠のき、また"食パン"が消えてもなお活躍を続けていた老兵でした。

実は改正の前日、どうしても最後に乗っておきたくて、金沢から富山へ、そして富山から金沢へと475系に乗りに行くと、平日なので当たり前のことなのですが、通勤や通学する人々が乗ってきては降りていく。最後の日とは思えない、そんないつも通りの情景でした。

富山
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高岡
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西高岡~高岡
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津幡~倶利伽羅
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金沢
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最後の金沢駅で撮った写真は、その金沢行きが到着したところ。ホームでは475系引退セレモニーが開かれていました。その後は一度車庫へ引き上げられ、夕方に松任へ回送されたようです。この最後の最後の列車に国鉄色が充てられたのは図らいあってのことだったのでしょうか。

 

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大阪行き最後のトワイライトエクスプレスを金沢行き最後の475系車内から。