大阪馬車鉄道の誤解(2)

昔に書いた記事の続きみたいなものです。
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前回は、大阪馬車鉄道の端緒たるは現在の天王寺駅前東天下茶屋であり、一般に言われている天王寺西門前~天王寺駅前を最初に開業した区間に含む説明は誤りであろうという話でした。

今回は続いて開業した「上住吉」「下住吉」の話をしてみたいと思います。
明治33年11月、大阪馬車鉄道は起点から約3.6kmの地点にある上住吉という場所まで延長されます。「上住吉という場所」などという回りくどい書き方をしましたが、実は馬車鉄道時代の駅名というのはよくわかっていないとされています。

 

まずは先の記事でも参照した明治33年度の大阪府統計書、また翌年以降、馬車鉄道時代の統計書を見てみます。すると、明治35年の下住吉延伸を境に表記が二分されており、後年の方では地名で記されているように見えます。
参照:明治34年度明治35年度明治36年度明治37年度明治38年度明治39年度

明治33年・34年 明治35年以降
天王寺村字長者ヶ崎 天王寺村大字天王寺長者崎*1
阿部野村八弘社 天王寺村大字阿部野八弘社
天下茶屋 天王寺村大字天下茶屋
勝間道 住吉村大字住吉勝間道
上住吉 住吉村大字住吉字上住吉
<未開業> 住吉村大字住吉字下住吉

さて、この統計書の表記がおかしいという話なのですが、ひとまず次の資料に移ります。

それは明治40年2月2日に特許された命令書です。これはWEBで公開されていませんが国立公文書館にて閲覧できる資料です。
命令書では延長線と動力変更線に分けて区間が示されており、動力変更線とは馬車鉄道から電気鉄道への変更許可を受けた路線であって、つまりは当時既に開業していた区間のことを指します。
明治40年2月2日の許可後2回ほど内容が訂正(修正?)されていますが、その最も新しいものを引用すると

一、延長線
大阪市南区天王寺大道町1丁目6052番、同6022番地先より同町3947番地先に至る假定縣道
前項終点より天王寺茶臼山町3713番地の1に至る新設軌道敷
前項終点より東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎1886番地の1地先に至る假定県道


二、動力変更線
 大阪府東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎1868番の1地先より同村大字天王寺字口經立1075番地先に至る假定縣道
 前項終点より同村大字阿部野字原田314番地先に至る新設軌道敷
 前項終点より同郡住吉村字一ノ坪1048番地先に至る假定縣道
 前項終点より同郡墨江村大字長峡4番地に至る新設軌道

とあり(一部読みやすくするため表記に変更を加えています)、「假定縣道」とある区間は併用軌道のことであり、新設軌道(敷)はそのままの意味です。
この資料から既設線の終点は「墨江村大字長峡4番地」であり、「住吉村大字住吉字下住吉」という統計書と食い違います。

 

この矛盾を考えるため、まずは住吉村誌で地名を確認することにします。
地理の項目「区画」を参照すると小字名の一覧があるほか、地図で位置関係も確認します。
また、前回も使用した大阪地籍地図についても合わせて参照します。

 

まずは住吉村内一つ目の「大字住吉勝間道」ですが、これはおそらく「大字住吉勝間道」であろうと読み替えます。字勝間道は小字名の一覧に「勝道」があり、これが該当します。なお、勝間(こつま)というのは隣接する村の名称であり、現在も勝間南瓜などで知られており、「門」というのは明らかな誤字でしょう。
さて、この「勝間道」の位置を確認すると、北西側、現在の高野線沿線*2に確認できますが、字内に現在の上町線の経路は確認できません。

次に「大字住吉字上住吉」ですが、字上住吉については一覧・各地図ともに該当はなく、続く「大字住吉字下住吉」も同じく該当はありません。
ここで順序が前後してしまいますが、そもそも村誌を参照すると

村内に大字名なく纔(わず)かに番地を以て區別するのみなり。然れども夫々土地に依っては小字名あり

とあるため「大字住吉」というもの自体が誤りではないかということになります。命令書中で「住吉村字一ノ坪」とあることからもなおそのようです。
よって、これらの「勝間道」「上住吉」「下住吉」は字名ではなく、駅名そのものではないのかという考えに至ります。

 

なお、天王寺村内についても同様の考察を行うと、「天王寺村大字天下茶屋」は「天王寺村大字天王寺天下茶屋」として該当がありますが、位置としては現在の天神ノ森駅周辺であり、現在の上町線とはかけ離れてた地点を示しています。また「大字阿部野八弘社」についても、先の勝間道の例のように大字阿部野八弘社のように一見思いますが、該当はありません。それもそのはずであり「八弘社」とは、現在の南霊園を明治40年まで運営していた会社の名前(出典:一般財団法人 環境事業協会)であり、地名ではないからです。
つまり、こちらの「天下茶屋」「八弘社」についても駅名ではないのか、ということです。

さて、すっきり結論が出たように思えそうですが、残念なことに不思議な点が二つ残ります。
一方は「長者ヶ崎」は字名としてたしかに存在し、場所も一致しており、駅名かと問われると疑問が残るということ。もう一方はなぜ下住吉は「墨江村」と書かれなかったのかということです。
色々と調べてみましたがこの点についてはなんとも言えないところです。

*1:37年より長者『ヶ』崎に戻る

*2:おおよそ現在の阿倍野区帝塚山1丁目及び北畠3丁目の各一部