大阪馬車鉄道の誤解

ご無沙汰しています。もうすっかり年の瀬ですが、今回は旅行記ではなく、阪堺の、特に上町線の歴史のお話をしてみたいと思います。

 

阪堺電軌上町線東天下茶屋駅に「馬車鉄道跡」と書かれた碑があるのですが、これに限らず、上町線はじまりの歴史がいい加減に処理されていることについてです。

まず、この碑の横にある解説板の内容ですが

 明治三〇年(一八九七)、大阪馬車鉄道株式会社が設立され、同三三年に天王寺西門前から東天下茶屋間が開通した。これは軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道で、たちまち繁盛し、二年後には下住吉まで延長された。
 この馬を操る人をベット(「別当」=ここでは馬の口取りの意)といい、尻取り歌にも「走るはベット、ベットは偉い…」などと歌われた。
 その後、沿線一帯の開発とともに、電化の計画が立てられ、同三九年三月に社名を大阪電車鉄道株式会社と改め、さらに同年一〇月、浪速電車軌道株式会社と改称し、同四一年にいたって馬車鉄道は廃止されることになった。同四三年から天王寺西門前から住吉前までの電化による営業が開始された。これが現在の阪堺電気軌道上町線の端緒となった。

とあります。碑が建てられたのは平成12年。13年前に市教委によるものです。

 

さてこの天王寺西門前から東天下茶屋までが開通した、という文言は阪堺の公式サイトにも書かれています。
もっといえば南海時代の鉄道ピクトリアル(具体的には1979年10月臨時増刊号)にもそのようにあるのです。(以下は阪堺公式サイトより)

ところで、同社は設立から3年後の明治33年9月に天王寺西門前から東天下茶屋間を開通させたのを皮切りに、同年11月には上住吉、同35年12月には下住吉までと順次路線を延長していきました。やがて同社は沿線一帯の開発が進み乗客数が増えたことなどもあって、馬車鉄道を廃止し電化工事に着手しましたが、工事なかばの明治42年12月南海鉄道に合併、上町線とよばれるようになりました。電化工事は南海鉄道が引き継ぎ、翌43年10月1日に完成、同日から天王寺西門前~住吉神社前間の運転営業をはじめました。さらに大正2年7月、住吉神社前~住吉公園間の延長工事が完成、南海本線との連絡が可能になりました。その後同10年12月、天王寺西門前~天王寺駅前間を大阪市に譲渡、これによって同線の起点が現在の天王寺駅前に移転し、ほぼ今日の姿にちかい状態になりました。

つまり端緒たるは、天王寺西門前~東天下茶屋であり、次に上住吉へ、次に下住吉へ延長して馬車鉄道時代を終えたということになるわけなのですが、これが誤りであるということです。

大阪馬車鉄道開業年である明治33年度の大阪府統計書を確認すれば、起点は「天王寺村長者ヶ崎」となっており、「阿部野村八弘社」「天下茶屋」「勝間道」を経て、終点は「上住吉」となっています。また、統計書では起終点間の距離が記されており、これが2マイル23チェーン(約3.681km)とされています。
さて「長者ヶ崎」というのはどこかというところで時代がややずれてしまいますが「大阪地籍地図. 1 東・南区及接続町村之部(明治44年)」で確認すると、昨今話題のあべのハルカスのあるあたりになります。余談ですが、現町名の松崎町の「崎」はここから来ているようです。(大阪市 阿倍野区 阿倍野の地名・町名の由来
ちなみに「天王寺西門前」であるとするならば、所在地はそもそも天王寺村ではなく、大阪市南区でなければなりません。

 

では、天王寺村長者ヶ崎を現在の天王寺駅前とみなして距離をみてみると、現在の帝塚山四丁目が3.4km、神ノ木が3.8kmであり、おおよそこのあたりが、統計書にある「上住吉」にあたるだろうということになるわけです。※その後の調べで、「上住吉」は高野鉄道を渡る直前に設けられたことがわかりました。

ただこれだけでは最初に開業した区間がわかりません。そこで住吉村誌を見ると、その歴史が詳述されており、天王寺村から住吉村に至る馬車鉄道として天王寺天下茶屋間(1マイル(約1609m)あまり)が最初に開通したと記されています。
ここでもまた「天王寺」を現在の天王寺駅前にみなして距離をみると、天王寺駅前から東天下茶屋までの現行キロは1.6kmであり、およそ一致しています。また「天王寺村から住吉村に至る」というのも、起点が天王寺村にあることを示しており、やはり天王寺西門前というのは誤りではないかと推測されます。

 

思ったよりあっさり終わってしまいましたが、以上のことから、大阪馬車鉄道が最初に開業した区間は、およそ現在の天王寺駅前東天下茶屋であるといえるのではないかということでした。