あべの橋の歴史と上町線の話

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大阪で橋といえばその多くが堀や運河に架けられたものですが、「阿倍野橋」は鉄道を越えるために架けられたものです。

都市内道路の立体化が試みられたのは、市電が急速に敷設されたことによってである。また、昭和初期の都市計画事業においても道路の立体化が進められた。
阿倍野橋は阿倍野線(現在の大阪和泉泉南線の一部)の建設に伴って堀割の天王寺駅を越えるため、昭和18年に架けられたものである。
大阪市:阿倍野橋(あべのばし) (…>橋>橋の紹介)

割とざっくりした説明です。現在の橋は1943年に架けられたものですが、それ以前から、鉄道を越えるために架けられていました。

遡ることおよそ130年前。
最初の橋は1889年に大阪鉄道の湊町~柏原(現・大和路線)が開通に際して、街道の部分を掘削した代わりに架けられたのが始まりです。この道を「阿倍(部)野街道」と呼んだので阿倍(部)野橋と付けられたのだと思われます。

ここから先の細かな話に入っていきます。今回も馬車鉄道のお話です。

1896年に大阪馬車鉄道の創立者らが長者ヶ崎(阿倍野橋の南側)から六万体までの馬車鉄道を出願します。
いくつかルート変更や再願を重ねていくなかで、大阪鉄道と交差するが協議済か?という問いがなされます。大阪馬車鉄道は1899年6月、平面交差ではないし、いま架かってる橋を広げて使用するので協議していない、と下記の通り回答しています。

大阪鉄道ト横過ノ個所ハ現ニ一般交通道路ニ架設シタル橋梁アリテ其橋梁ハ桁下ト大阪鉄道線ト十八尺ノ距離ヲ有シ決シテ線路ト線路ノ平面交叉スヘキモノニ無之依テ此橋梁ヲ拡築シ敷設セントスルモノナレハ大阪鉄道ト協議ノ必要無之ト存シ協議不致候

ちなみに工事方法書では幅を3.1メートルを6.7メートルに拡幅、工費は800円となっていました。そんなこんなで、9月13日に長者ヶ崎~上本町九丁目の延長線が特許されました。

しかし、10月2日に大阪鉄道から連絡が来ます。南海鉄道が乗り入れてくることもあるので協議しましょう、と。

背景益御清隆奉賀候陳者貴社馬車鉄道線路敷設ニ付当社天王寺駅構内横断ノヶ所ニハ橋梁架設ノ御計画有之候由及聞候処今般南海鉄道ト連絡ニ付構内拡張ヲ要シ候間一応工事御設計ノ義御協議申上度ト存候間明后四日午前中御来談成被下候様致度此段御照会申上候

結果、大阪鉄道が設計施工し、費用を南海鉄道を含めた三社で折半することになるのですが、総工費が10,052円62銭と高額で、3で割っても3,350円87銭となります。当初800円と見積もっていたわけで、これが4倍になってしまいました。
改めて当時の各社をみてみると、既に営業している大会社と同じ負担というのはかなりえげつない額に思えます。

  • 大阪鉄道
    • 資本金:345万円
    • 営業路線:梅田~玉造~天王寺、湊町~奈良、王寺~桜井
  • 南海鉄道
    • 資本金:500万円
    • 営業路線:難波~和歌山北口
  • 大阪馬車鉄道
    • 資本金:5万円
    • 営業路線:なし(未開業)

結果、1901年5月に2代目の阿倍野橋が開通します。この間に、大阪鉄道は関西鉄道に合併、南海天王寺支線が開業、大阪馬車鉄道は長者ケ崎~上住吉の間で開通しています。
そして、多額の費用を支払ったにもかかわらず、大阪馬車鉄道がこの橋を越えることはありませんでした。越えるのは南海鉄道合併後、上町連絡線として再開業する1911年10月1日のことだからです。
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1921年12月、上町線のうち、阿倍野橋より北側の区間大阪市に買収されます。
この際に阿倍野橋北端に終点が移され、おそらくこのときから駅名も「天王寺駅前」とされたものと思われます。


最初に触れたように1943年に現在の橋に架け替えられているのですが、これは周辺の交通も巻き込んだ、天王寺駅改築工事に伴うものでした。

1930年代、天王寺阿倍野橋は交通の要衝になっていきます。大阪鉄道(1923年開業、現・近鉄南大阪線)、市営乗合自動車(1927年営業開始)、阪和電鉄(1929年開業、現・JR阪和線)の乗り入れ、城東線の電化(1933年)、地下鉄の開業(1938年、現・御堂筋線)というように、ざっとこれぐらいが挙げられます。地下鉄建設が始まったとはいえ、大阪市中心部へは市バス・市電がメインの手段で、天王寺駅は郊外からこれらに乗り換える結節点となり、過度に集中した旅客や貨物を捌くために、天王寺駅の改築と周辺交通の再構築が計画されます。

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『大阪工事局40年史』より、工事初期の図です。橋上に南海の電停があることがわかります。

この一環として、橋北側にある市電と橋の上にある上町線の駅を橋の南側で集約し、道路を北へ渡れば省線・南海天王寺支線・阪和電鉄、南へ渡れば大鉄、真下に降りれば地下鉄という新駅の建設が立案されました。また、上町線が無くなった後の橋上には市電の駅を拡張する計画もありました。

海上町線は在来の阿部野橋上の終点を後退させ、国鉄本屋と大鉄百貨店の間で地下鉄の真上に移る。又市電上本町線は反対に延長されて橋を渡り南海と並ぶ。更に市電堺筋南北線はこれ又延長され、拡張橋上を終点とするなど文字通り四通八達で、南大阪の玄関はかくして総合停車場の実を遺憾なく発揮し、国鉄経営のみならず、一般社会施設として最良のものであることを示すに至った。

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『大阪工事局40年史』より、完成予定図。断面図は東側から見たものです。いまもJRと近鉄の間の道路がやけに広いですが、道の真ん中に電停を置くつもりだったんです。

しかし、実際には置かれることはありませんでした。ただ、夢物語であったかというとそうではなく、たとえば橋上で折り返すための「阿倍野橋線」の115メートル、橋南側に乗り入れる「天王寺阿倍野線」の250メートル延伸の特許が下りていました。また、天王寺阿倍野線の新駅から住吉区平野本町一丁目までの市電延伸も計画されていて、平野方面との旺盛な移動需要があったことがわかりますが、この時代の流れを考える上でこの話は特別な事柄だと考えています。
1925年の第二次市域拡張の結果、従来の大阪市(旧市域)と新たに大阪市となった地域(新市域)の間の交通確保が急務となりました。市内の交通は市が担うことを謳っていましたから、すなわち市電の拡張が目指されるのですが、道路整備と並行して行うには限界があり、1927年に市はバスの営業を始めます。この最初の路線が阿倍野橋~寺田町~平野なのです。一方、これに対抗してか1929年には南海も天王寺駅前~平野の直通系統を新設したほか、恵美須町~平野の系統で2両併結運転を始めました。ちなみにこの2両併結運転用の車両が今日も走るモ161形です。このような流れの中で考えると、この市電と上町線の駅を橋南側に作り、さらに平野方面への延長をするという話は自然に思えます。

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さて、1938年、上町線天王寺駅前駅は、南へ147メートル短縮し、新駅乗り入れまでの仮駅を設けました。これが実は2016年12月まで天王寺駅前の電停があった場所、写真は2015年のものです。市電の延長線は着工されたものの、戦時色が濃くなる中で止まり、上町線と市電の駅は同じになるどころか、離れてしまったのでした。
戦後、様々な思惑がありながら、ついに橋を電車が渡ることはなく、現在に至っています。この辺りのお話はまた別の機会にまとめたいと思います。

最後に思い出の話。小さい頃、近鉄へ親に連れられてきたとき、上町線か市バスに乗って家に帰る前に寄り道を要求した場所があべの橋の上でした。真下を色んな電車、しかも普段見ることも乗ることもないJRの電車が通るのでとても楽しかった憶えがあります。