平面交差していた上町線と高野線

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早いもので住吉公園駅廃止から4年が経ち、阪堺線上町線が平面交差していた光景も古いものとなってしまいました。
このような平面交差、1913年の住吉~住吉公園開業以前にも存在していた時代があります。


上町線高野線が交差する場所といえば、上町線神ノ木駅、高野線帝塚山住吉東のところですね。どう見ても立体交差だろというやつですが、開業当時は平面交差だったのです。ほとんど知られていないお話です。
開業当時というと、具体的には1902年。上町線は大阪馬車鉄道(以下、単に馬車鉄道)、高野線は高野鉄道でした。


1898年1月、高野鉄道は大小路(現・堺東)から狭山までの区間で営業を開始しましたが、大小路から北へ延伸して大阪市内乗り入れを目指していました。高野鉄道は当初、阪堺鉄道堺駅に起点を置いていましたが、これを住吉駅(現・住吉大社駅)に変更、大和川を越えてからは阪堺鉄道と併走して、住吉駅まで乗り入れる計画としました。さらにそこから勝間村(現在の岸里玉出駅付近)まで北上したあと、木津川へ出る計画を立てます。これは舟運との接続を狙ったもので貨物輸送を便利にする計画でした。

しかし、大阪府から横槍が入ります。住吉公園付近で南海鉄道*1と並走することは危険であり、公園の風致も損ねるということでした。
そこで、大和川を越えた後に立体交差で線路を跨ぎ、住吉公園西側を通るルートを変更案としますが、府はこれにも公園の将来の拡張に支障するといって難色を示し、現在の経路、すなわち大小路から北上して、住吉大社東側を経由、勝間村付近で南海鉄道と交差するものに変更されました。
このように高野鉄道は大阪府の意向によって経路を変えざるを得なくなったわけですが、この結果、既に土地買収などを進めていた馬車鉄道の特許線と住吉村内でぶつかることとなってしまいました。

各ルート概略図。高野鉄道の経路はピンク→緑→黒と変更。水色は馬車鉄道の特許線。

1898年11月16日、高野鉄道から馬車鉄道へ交差箇所について連絡がありますが、馬車鉄道としては既に土地も確保しているし、その場所は車庫や厩舎の建設予定地。あとから出てきた鉄道のために高架にするなんてありえないし、平面交差することになれば地形上見通しが極めて悪い、高野鉄道がルートを変えるべき、などと反発。両社ともに交差部前後の建設工事が止まってしまいます。

一見、馬車鉄道の言い分が当たり前のように思うのですが、実は馬車鉄道の特許状の中に、横断交差する道路、他の馬車鉄道・電気鉄道ができることになっても拒否できない、という項目がありました。このため、交渉を再開するも1900年7月、内務省から平面交差にしろと言われてしまいます。

結果、高野鉄道は懸案の交差部の土地を手に入れ、9月3日、道頓堀(現・汐見橋)まで延伸して念願の市内乗り入れを果たしました。一方の馬車鉄道は11月28日、交差部の手前(東側)に上住吉駅を設けて暫定的な終点としました。ここから交差部に関する契約や協議を行い、下住吉までの延伸をいち早く進めたい馬車鉄道ですが、先に開業した高野鉄道は強気になり、開業前の約束を反故にしたりと散々であったようで、ようやく契約に至ったのが下記の11項目(内容は意訳)でした。

  1. 交差部には門扉を設けて、通常は馬車鉄道側が開いている状態とすること
  2. 住吉東駅長は門扉を踏切番人に高野鉄道側に開かせたことを確認してから信号の操作をすること
  3. 踏切番人は門扉を開けてからその知らせをすること
  4. 高野鉄道の列車が遅れている場合は速やかに踏切番人に伝え、馬車鉄道を通すこと
  5. 馬車鉄道は門扉が閉まっていても、踏切番人が白色旗(夜は白色灯火)を出しているときは通ってはいけない
  6. 高野鉄道が臨時列車の運転や発着時刻・運転回数等に変更があるときは前もって馬車鉄道に通知すること
  7. 交差部の設備費用は高野鉄道が負担すること
  8. 交差部の設備費用を修理するときは協議の上で高野鉄道が管理して工費も支払うこと
  9. 踏切番人は両社協議の上で1・2人を高野鉄道が雇うこと。給料の3分の2は高野鉄道、3分の1は馬車鉄道が負担すること
  10. 踏切番人の給料は月末に集計して高野鉄道が馬車鉄道に請求すること。馬車鉄道は翌月5日までに支払うこと
  11. この契約は一方が不便と感じたら、両社協議の上で改正できること

ようやく上住吉~下住吉が開業したのは1902年12月27日。こうして馬車鉄道と汽車が平面交差する場所が生まれました。たった1駅、距離にしてわずか33鎖(約660メートル)に2年を費やしたことになります。


『大阪名所案内絵入全図 第五回内国勧業博覧会必携』堺市立図書館デジタルアーカイブより

1903年の地図です。高野鉄道も「住吉停車場」「堺停車場」となっていますが、実際には南海鉄道から同じ駅名はやめろと言われ、開業数日で「住吉東」「堺東」に改称しています。博覧会用の地図なのでしょうがないですが、よく見ると勝間停車場に「Sumiyoshi station」、木津川停車場に「Kishu road.」と英語がつけてあったりいろいろ雑ですね。

平面交差は短命でした。5年あまり経った1908年1月、馬車鉄道(当時の社名は浪速電車軌道)が電化工事のため廃止となり、電車開業時には現在の立体交差の姿へと変わったのでした。
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余談ですが、過去にブログを書いた際に「上住吉」が3.681kmの地点となっていて、なぜ今の神ノ木駅より少し手前にあるんだろうかと思っていたのですが、今回のことを調べる中で高野線を越える手前に駅があったことがわかり、とてもすっきりしました。

大阪馬車鉄道開業年である明治33年度の大阪府統計書を確認すれば、起点は「天王寺村長者ヶ崎」となっており、「阿部野村八弘社」「天下茶屋」「勝間道」を経て、終点は「上住吉」となっています。また、統計書では起終点間の距離が記されており、これが2マイル23チェーン(約3.681km)とされています。
(中略)
天王寺村長者ヶ崎を現在の天王寺駅前とみなして距離をみてみると、現在の帝塚山四丁目が3.4km、神ノ木が3.8kmであり、おおよそこのあたりが、統計書にある「上住吉」にあたるだろうということになるわけです。
大阪馬車鉄道の誤解 - Aqueous Blog

*1:阪堺鉄道を合併