上町線開業120周年

2020年9月20日上町線は開業120周年を迎えました。ヘッドマークもついてるようなので撮りに行きたいところです。

この日を記念して薄い本にするつもりでしたが色々中途半端になっているので、とりあえず一旦ここに投げて供養としたいと思います。

概略

上町線は1900年に大阪馬車鉄道として開業し、1908年に電車への転換のため一旦廃止、1910年に電化開業しています。この間に南海鉄道(現・南海電鉄)に合併しています。1913年に住吉公園へ乗り入れ、これが全線開通となります。1915年に阪堺電気軌道とも合併し、阪堺線、平野線大浜支線とともに軌道線4路線が一体となりました。
1921年天王寺駅前より北側が大阪市電に譲渡され、天王寺駅前〜住吉公園という長年の形となります。
戦時統合で近畿日本鉄道となりますが、戦後、旧南海鉄道の路線は独立して南海電気鉄道となり、1980年には上町線阪堺線が分社化されて、現在の阪堺電気軌道となりました。2015年に住吉〜住吉公園が廃止となり、今日に至っています。

開業前史

今から125年前の1895年、天王寺駅天下茶屋駅の馬車鉄道を請願したことに始まります。翌年特許、もう翌年の1897年に大阪馬車鉄道株式会社が発足しました。
開業前の時点で馬力から電力へ、軌間を1067mmから1435mmへ改軌することを計画しますが、認可されず、馬車鉄道での着工・開業に向かいます。

以下に請願書を引用(読みやすいよう一部表記の変更・改行等あり)しますが、天下茶屋遊園に関する言葉がとても多く見えます。
実は馬車鉄道創立委員で当初取締役にも就いた野田正教は、1892年頃からの天下茶屋遊園開発にも関わっていて、馬車鉄道請願と天下茶屋遊園開発は強く関係していたことが伺えます。
なお、天下茶屋遊園開発には橋本尚四郎・久五郎が私財をなげうって行い、これが今日の阿倍野区橋本町の由来となっています。

天下茶屋天王寺間馬車鉄道敷設ノ儀願
今般私共申合旅客遊人運輸営業ノ目的ヲ以テ大阪馬車鉄道株式会社ヲ創立シ府下西成郡勝間村字東濱田ニアル天下茶屋停車場ヨリ東天下茶屋遊園地エ出テ阿部野村ヲ経テ天王寺停車場ヘ1哩57鎖(幅員3尺)ノ複線鉄道ヲ布設シ一面南方ヨリ東北ニ到ルノ便ヲ助ケ一面大阪市及接続町村ヨリ天下茶屋遊園内ニ出ル遊客ノ便ニ供シ大阪鉄道天王寺停車場ヨリ阪堺鉄道天下茶屋停車場ヘノ往復ヲ容易ナラシメ度趣旨ニ候
抑モ接続町村行人物貨運輸ノ頻繁ナル今更喋々ヲ要セサルモ四天王寺聖天山八弘社阿部野神社等祭典仏会ニ人ノ往復頗ル多ク近年天下茶屋遊園開設已来茲ニ笻ヲ曳クモノ実ニ盛ナリト謂ウベシ
蓋シ天下茶屋遊園ノ眺望ハ摩耶御影六甲ノ諸嶺ヨリ淡路島播磨洋ノ風光ヲ一眸ノ中ニ讃メ北ハ大阪市景ヲ扣エ南方都テ野色ニ富ミ遥ニ葛城金剛ノ諸山及紀伊見生駒信貴ノ群峰ヲ眺ムベク豊太閤此地ヲ愛賞数次来往シ其境域広濶ニシテ且風色ノ山水ヲ兼ネタル所真ニ恰当ナル遊園地ノ素ヲ成セルヲ以テ天下公衆ノ茲ニ快楽ヲ採ル可キヲ先見シ乃チ天下茶屋ト名ケラレタリト
今ハ則16万有余坪ノ一大遊楽ノ園トナシ緑樹蒼々タル園中四時草花ヲ植エ亭舎ヲ設ケタリ
故ニ遊客行人ノ絡繹ヲ視ルニ至レリ
追次此ノ園ノ益盛ナルヤ必セリ
然リ而シテ天下茶屋停車場ヨリ天王寺停車場ニ到ル間別紙図面ノ通公私ノ道路ヲ以テ複線軌道ヲ伏設スル余裕充分ニシテ行人ノ便ヲ図リ併セテ大阪市街ノ形勢ヲ相添申度素志ニ候事体宜敷御酙察ノ上軌道条例第一条ニ依リ特許相成度
尤モ定款ノ義ハ会社組織出願ノ際添付可仕候
依テ起業目論見書及略図相添発起人連署ヲ以テ此ノ段上願仕候也
但道路ヲ拡築スヘキ敷地併ニ軌道敷ハ上地可仕候
明治28年10月5日

【出典】『大阪馬車鉄道研究(五)』「南海道研究 No.107」塩見猛(1986)

開業

このあたりは過去何度か書いているところですが、1900年9月20日に現在の天王寺駅前から東天下茶屋となる区間が開業します。
開業前日の新聞では以下のように伝えられています。例によって駅名はよくわかりません。後でまた細かく書きます。
運賃は1駅2銭で2駅(全線)は3銭。そういえば値上げが決まってまもなく230円均一となるので、11500倍とかいうことになりますが、物価の上昇と比べるとどんなもんでしょうか。

馬車鉄道の開業
大阪馬車鉄道会社の線路中起点天王寺字長者ヶ崎より阿倍野字南阪田迄の工事全く竣成したるにつき明二十日より開業することとなり府庁へ右許可を願出たり就ては今十九日地理掛小島属、瀬良技手実地監査の上特許状を下付する筈にて営業区域賃金等左の如し
営業区域中天王寺南詰(関西鉄道停車場付近)より八弘社迄を第一区、八弘社より阿倍野迄を第二区に分ち賃金は一区二銭、二区通じて三銭と規定し当分は半賃に割引し営業時間は午前六時より午後八時までなり

【出典】朝日新聞 1900年9月19日朝刊5面

大阪馬車鉄道の仮開業
天王寺東門より住吉までの敷設免許を得たる同会社の工事は此程関西の天王寺駅付近より阿部野まで約一哩間竣工せしにより本日当府庁の検査を受け明日より仮開業をなす筈なり而して天王寺より八弘社を一区としそれより阿部野までを第二区となし一区の乗車賃二銭二区通しは三銭にて営業は午前六時より午後八時までの由尚阿部野より住吉まで約一哩の線路は来る十一月二十日頃迄には完成の見込なりと

【出典】毎日新聞 1900年9月19日朝刊

車庫の変遷

開業以前は今日の神ノ木付近に設ける計画がありましたが、以前記事にしたように高野鉄道と交差する必要から実現しませんでした。馬車鉄道時代の車庫や厩舎がどこに設けられたかははっきりしていません。

電化開業時点では天王寺駅前付近(長者ヶ崎1886番地の1、車庫への分岐は起点から43鎖)に車庫が設けられています。この場所は馬車鉄道時代の起点と同じ(長者ヶ崎1886番地の1地先)であることから、馬車鉄道時代も同じ用途で使われていた可能性もあります。
その後、阪堺電気軌道との合併を経て、1919年に撤去。旧・阪堺側の今宮車庫*1に統合されています。下記の資料では1917年に廃止とされています。

何といっても嬉しいのは、黒一色の阪堺電車の線路上を朝夕上町線チンチン電車が見えることだった。これは大正6年上町線天王寺車庫廃止以来、住吉経由で南霞町の車庫まで自力回送する姿で、この電車は大阪市電の赤茶色ではなく、緑がかった濃茶色で、あれが大阪市電の後の201形と、全く同じ車体の電車だったとはどうしても考えられなかった。それはこの電車は鉄製の救助網を取付けていて、終着停留所では回転式2本ポールであるにもかかわらず、トロリーレトリーバーを持っていたためであろう。
<略>
この南霞町回送は大正10年軌道線電2形11両が誕生するまで続いていた。

【出典】『木造電車の時代』「鉄道ピクトリアル1979年10月臨時増刊号」藤浦哲夫(1979)

車庫の跡地は1921年大阪鉄道の停車場用地として収用され、1923年に大阪天王寺駅(現在の大阪阿部野橋駅)が開業しています。開業当時の北西部分にあたるため、後に地下鉄延伸も伴って道路化され、今日の近鉄前交差点の東側となった部分と推定されます。

さて、一本化された今宮車庫ですが、すぐに手狭となったようで1925年には現在も使われている大和川車庫が設置されます。1941年に大和川車庫を拡張して統合し、今宮車庫は廃止して「霞町側線」に改称されています。

停留場の変遷

たぶんここが一番長いです。
ほとんど開業日すらわからない停留場のため、公文書、統計書、新聞広告等を用いて推定したものをまとめました。
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天王寺西門前
電化再開業時に設置され、路線名「上町連絡線」の名が示すとおり、大阪市電上本町線へつながる接続点となりました。
1921年大阪市に買収され、以後は市電の電停となりますが、1968年に廃止となりました。今日も交差点名やバス停名に残っています。

茶臼山
電化再開業時に設置されました。同じく大阪市に買収されますが、1944年、戦時色が濃くなり、大規模に停留場が削減(終日急行運転化)された際に廃止となっています。

天王寺→公園東門前→天王寺駅前
以前記事にしたように、ここは小移転を繰り返しているところで、馬車鉄道時代は阿部野橋の南詰に設けられて「天王寺」を名乗っていたようですが、電化再開業時には橋の北側に移転して「公園東門前」となりました。公園とはもちろん天王寺公園のことです。
大阪市による買収に伴って、橋上にまた移転するわけですが、おそらくこのとき「天王寺駅前」に改称したのではないかと見られます。
1938年にさらに南側に移転し、2016年からは現在の位置に移っています。
以下は大鉄百貨店開業後(1939年頃?)の写真。右下に見えるのが移転後の天王寺駅前停留場。左下に市電との総合駅が誕生する計画で、それまでの仮駅の予定でした。

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【出典】大林組-大鉄百貨店阿倍野店

常盤通
電化再開業時には存在していなかったものの、1911年度末時点の統計書には掲載があることから、開業後まもなく設置されたとみられます。
これは、馬車鉄道時代の「天王寺」と比べて「公園東門前」は事実上北へ移転してしまったことから、駅間が広がってしまい新たに置く必要が生まれたのではと推定しています。
「常盤通」という名称は電車の走る筋(阿倍野街道)と阿倍寺(庚申街道沿い)を結ぶ道の私称で、阿倍寺の常盤松に因んでおり、市内屈指のマンモス校である常盤小学校もこれを由来としています。停留場はこの常盤通とつながる場所、現在は洋服の青山とゲームセンター(天王寺パスカ)がある交差点に設けられていました。
休止・廃止時期は不詳で、天王寺駅前の移転の後に休止となり、後に廃止されたものとみられます。なお、並走する市バスにも同名のバス停がありましたが、1941年9月1日に廃止されています。

阿部野→阿倍野
馬車鉄道時代から存在していて、以前は統計書等から「八弘社」ではないかと書きましたが、馬車鉄道時代の運賃に関する資料で「阿部野」となっていることから、駅名としては「阿部野」なのではと思われ、改めます。
開業当時は別会社であった平野線は「葬儀所前」を名乗っていましたが、1927年に東へ2鎖5節(41メートル)移転して「阿倍野」に改称しています。なお、阿倍野につきまとう問題である「部」「倍」の揺れについては、いつ改められたかは不明であり、許認可関係の公文書等でも混在しているのが実情です。
南海・阪堺合併後の再編の中で連絡線が設けられ、1925年には散水車入換のみに使うとして一時単線化されますが、1929年には複線に戻して天王寺駅前~平野の直通運転を開始しています。

中道
ここが一番よくわかりません。開業・休廃止の年も確定できていません。統計書からは1918年度末までに開業しているようにみえます。
現在も松虫停留場のすぐ北側の踏切名は「中道1号」となっていて、その名前を残しています。また、あべの筋阿倍野交差点と阿倍野警察署交差点の間に2つ信号があるうち、おそらく南側の信号機器ボックスに「中道」と書かれていた記憶があります。ちなみにもう一方(北側)は「阿倍野筋四丁目」だったはずです。こういった交差点名として掲示されていない信号の名称(?)って何か調べる手立てはあるんでしょうか。

松虫
1925年11月に停留場新設の届出が行われています。設置年は不明ながら渡り線が設けられていましたが、昨年6月頃に撤去されました。
この渡り線は2005年5月に阿倍野交差点付近で水道管が破裂して水没した際に使われていましたね。
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天下茶屋東天下茶屋
馬車鉄道開業当時の終点。ここから西へ向きを変えて天下茶屋駅前へ下りていくのが当初の計画で、申請等では南阪田として登場します。後に、南へ進む住吉線の分岐点として申請され、住吉線とされた路線が建設されていくことになります。
馬車鉄道時代は「天下茶屋」とし、電化再開業時に「東天下茶屋」となったとみられます。南海鉄道天下茶屋駅は既にあったわけですから。

北畠
1912年度中に開業したものとみられます。1923年に渡り線が設けられ、天王寺駅前~北畠の区間列車が設定されます。

勝間道→姫松
馬車鉄道時代に設けられていましたが、電化再開業時点では一旦なくなっており、1912年度中に「姫松」として再開業しています。
「勝間道」という字は阿部野神社のやや南側であり、駅の所在地とは異なっていますが、そもそも勝間というのは隣の村名(後の玉出町)であり、高野線岸里玉出阪堺線玉出も古くは勝間を名乗っていたことがあります。常盤通と同じく、阿倍野街道から勝間村へつながる道を勝間道と称して、その入口に駅を置いたと考えるのが自然に思えます。

帝塚山帝塚山三丁目
中道と同じく開業年度がよくわかっておらず、1918年度末までに開業しているようにみえます。
帝塚山三丁目への改称時期もよくわかっていませんが、帝塚山四丁目新設時には既に変わっていたようです。高野線帝塚山駅帝塚山四丁目と同時期の1934年開業なので、これに先んじて変えていたのかもしれません。

帝塚山四丁目
上町線の中では、最後に新設された駅です。
1934年11月28日に新設申請、同年12月20日付で認可されています。

上住吉→神ノ木
ここも以前に細かいことは書きましたが、馬車鉄道時代、高野鉄道と平面交差することとなって仕方なく終点として設置されました。電化再開業時に立体化され、現在の位置に「神ノ木」として開業しています。

下住吉→住吉神社前→住吉
馬車鉄道時代~電化再開業時の終点です。馬車鉄道時代は「下住吉」、電化再開業時には「住吉神社前」となっています。阪堺電気軌道合併に伴って住吉停留場として統合されていったものとみられます。

住吉公園
1913年に延伸・開業しましたが、阪堺電気軌道と合併したため1916年に休止、1918年に営業を再開しました。
2014年から朝ラッシュ数本のみの発着となり、日本一終電の早い駅として話題になりましたが、平面交差を含むこの区間の維持費用が巨額になることなどを理由に2016年1月に廃止となりました。かつては南海本線も住吉公園駅を名乗っていましたが、1979年に住吉大社駅に改称しています。

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▲電化開業時の広告

住吉、天王寺
南海鉄道会社経営の天王寺西門前から住吉神社前に抵る上町連絡線は工事中のところいよいよ竣工して一日午前五時十分より電車を開通した、天王寺公園からも天王寺参詣にもチョコチョコとそれに乗り継げる▲住吉まで二区七銭の切符を買うて新調四十二人乗の電車に乗る、出ると直ぐ茶臼山停留所に来る、「次ぎは公園東門前、お降りの方はありませんか」の声を聞いて「一遍ここで降りたろか」と電車が天王寺公園の後手と天王寺駅前に止ると二三人の職人風の男が降りた▲天王寺駅跨線橋を渡ると野面が見えて阿倍野を通る、複線になっていて線路に小砂利を敷いてあるから乗り心地がよくこの線路の出来た為に名物の阿倍野街道の泥濘もなく楽々と牛車が通っていると間もなく東天下茶屋に着く、天気が好ければ信貴、生駒や金剛の山々を眺められる▲神の木の停留所は高野登山鉄道住吉駅に連絡が出来ていて車掌は「高野鉄道駅前でございます」といふ間に住吉神社の石灯籠が見えて電車は名物のお芋屋や麦藁細工を売っている、神社表門筋で止った▲大海神社の森はそこに見えて参詣道とした大きな石橋はポカンと線路の脇に立っている、ここまで十三分かかった、電車を下りしなに切符を車掌に渡すと太い錠前のついた竹の筒へ入れた▲市電の上町の工事も着々捗っているこれといよいよ連絡が出来れば天王寺詣り、住吉まいりは便利である

【出典】朝日新聞 1910年10月2日朝刊11面


というわけで現状こんな感じで、まだ調べきれていないところや時代が下ってきたりすると資料も見れていない状態だったりしますが、ちまちまやっつけていきますので、最終的には何か形にできればと思います。
120周年ヘッドマークもそうですが、1101形だったり筑豊電鉄カラーだったり色々撮りたいものが溜まってきてはいるので、そのへんもそろそろどうにかしたいですね。

*1:資料によっては霞町車庫とも。現在の新今宮駅前北西側